疏水の概要・特徴
地区の中部、旧海老名村・有馬村は1300年前の大化の改新の際、一大墾田が広がり相模一の美田と称せられた。
しかし、排水不良の湿田でありつつ用水源がなかったため、しばしば旱害に見舞われるなど、用水路建設による安定的な用水確保は関係町村民から永年熱望されていた。関東大震災からの復興のさなか、昭和3年に県営による用排水路建設の議が起り、県議会の協賛を得て翌4年関係町村は水利組合を組織し、海老名村長望月珪治(もちづきけいじ)氏を初代管理者として事業に着手する。そして土地改良事業に豊富な経験を持つ地方農村技師、船戸慶次(ふなどけいじ)氏が神奈川県農業水利改良事務所長として、その設計を指揮した。工事に着手した昭和5年は、世界恐慌により日本経済は危機的状態に陥り、豊作による米価下落、労力不足や資材不足による材料費の高騰が重なるという深刻な状況下にあり工事の進捗は困難を極めたが、昭和7年2月、洪水を防ぐための鳩川放水路が完成したことから新磯村(現相模原市南区磯部)に於いて取水堰を起工、昭和10年に完成し毎秒6.85tを取水を始めた。
(建設当初の頭首工)
その後も用水路の工事を進め、9年余の歳月と100万円の巨費を要して昭和15年3月竣工に至った。水路の延長は28,000m、新磯部・座間・海老名・有馬・寒川・小出・御所見・茅ヶ崎の8ヶ町村の2200余町歩の大耕地は、干ばつの憂いなく、鳩川・貫抜川・永池川等の排水施設によって水害の恐れもない沃田となったのである。
昭和22年9月15日の大洪水では頭首工の堰堤部を大破し取水不良となったが、同年11月再び県営にて復旧工事に着手し700万円の費用を投じて翌年6月に復旧を遂た。 戦後の国家再建・食糧増産にも、本用水は大きな役割を果たし現在に至っている。